二足歩行の猫たちが仕立てのいいチョッキを着て闊歩するファンタジックな石畳の街外れ、日当たりのいいティールームのテラス席で、その「消失現象」はすでに始まっていた。
「……ねえひろし君、さっきお皿に乗ってた肉球印のサブレ、四枚あったよね?」
嫁子が紅茶のカップに手を添えながら、呆れたような、けれどどこか見慣れたものを見る柔らかい眼差しで尋ねる。向かいに座るひろしは、口の端に微かに粉をつけながら、人懐っこい笑顔で喉を鳴らした。
「あれ? 気づいちゃった? なんか空気に触れると酸化しちゃうかなって思って、俺の胃袋に避難させといた!」
「避難って何よ。本当にお菓子ダイソンなんだから……吸い込むように食べるのやめなさいって言ってるでしょ」
平成男子の気軽さと調子の良さを全身から発散するひろしに、嫁子はぷっと頬を膨らませる。年頃の女の子らしい若々しい仕草だが、憎めないのがひろしの特技だった。彼は両手を合わせて「ごちそうさまでした!」と屈託なく笑う。
そこへ、鈴のついたエプロンをきりりと締めたトラ猫の給仕長、ニャルシスさんがトレイを両手で恭しく抱えて歩み寄ってきた。二足歩行で背筋をピンと伸ばし、丁寧なカーテシーを見せる姿はまるで名門貴族の執事そのものだ。
「ひろし様、嫁子様。いつも当店をご贔屓にしていただき、誠にありがとうございますニャ。本日は、いつもお菓子を気持ちのいい吸引力で完食してくださるひろし様と、美しき嫁子様へ、私どもからの特別なお礼の品をお持ちいたしましたニャ」
「えっ、マジで!? ニャルシスさん、気前良すぎ!」
ひろしが目を輝かせる。嫁子も「お礼なんて、そんな気を使わなくてもいいのに……」と恐縮しつつ、嬉しそうに身を乗り出した。
銀色のドーム型の蓋(クロッシュ)が被せられた皿が、テーブルの中央に厳かに置かれる。
「我が一族に代々伝わる、至高の贈り物でございますニャ。今朝早く、まだ街が眠る草露のなか、足音を忍ばせて仕留めたばかりの……それはそれは活きのいい逸品ですニャ」
ニャルシスさんが誇らしげに髭をピンと震わせる。
その言葉に、ひろしの脳内レーダーが即座に反応した。 「朝露……仕留めた……ってことは、まさか幻の朝摘み完熟イチゴを使ったプレミアムタルト!? 足音を忍ばせるほどデリケートな超高級フルーツってことだな!」
嫁子も目を丸くして感心したように頷く。 「活きがいいってことは、採れたて新鮮なハーブをふんだんに練り込んだ、体に優しい限定スイーツかしら? ひろし君が甘いものばっかりダイソンするから、気遣ってくれたのかも!」
「ひろし様はいつも丸呑みするように、ダイソンのごとく一気に召し上がると伺っておりますニャ」 ニャルシスさんは嬉しそうに目を細め、尻尾をゆらりと揺らした。 「ですから、喉越しと躍動感を重視いたしました。噛むとパリパリと羽のように香ばしく、口の中でピチピチと跳ねるような生命の息吹……まさにひろし様の強靭な吸引力にふさわしい、丸呑み推奨のサイズ感ニャ!」
ひろしは「喉越し!」「羽のようなパイ生地!」「炭酸みたいに弾けるジュレ!」と完全に都合よく解釈し、喉をゴクリと鳴らした。
「完璧だ……ニャルシスさん、俺の胃袋のポテンシャルをそこまで見抜いてたなんて! 俺、期待に応えて一瞬で吸い込むわ!」
「まあ、ひろし君ったら。でもニャルシスさん、そこまで手をかけてくださったなら、味わって食べなきゃ失礼よ?」 嫁子もすっかり上機嫌で、二足歩行の礼儀正しい猫紳士へ満面の笑みを向けた。 「ふふ、とっても楽しみです。開けていただけますか?」
「どうぞ、お納めくださいニャ。我が魂の結晶、まだ温かい獲物(ギフト)でございますニャ!」
うやうやしくニャルシスさんの前足が銀の蓋にかけられ、パカッ――と軽やかな音を立てて開けられた。
テーブルの上に、静寂が落ちた。
銀皿の中央。 美しく飾られたパセリの真ん中で、青光りする立派なトカゲが、まだほんのりと温かい体温を残しながら、ピク……ピク……と後ろ足を規則正しく痙攣させていた。その横には、ニャルシスさんが早朝に狩った証として、羽をむしられたばかりのピチピチと動く特大のイナゴが添えられている。
「…………あれれ?」
ひろしの開いた口が、そのまま塞がらなくなった。
「…………あれれれ?」
嫁子の愛らしい笑顔が、そのまま氷点下まで凍りついた。
ニャルシスさんはといえば、喉をごロゴロと爆音で鳴らし、目を細めて満面のドヤ顔をキメている。 二足歩行でおしゃれなベストを着ていようが、言葉遣いが貴族の執事のようであろうが、彼らはどこまでいっても純度百パーセントの猫なのだった。猫にとって、大好きな人間に贈る最大の愛情表現とは、「朝露の中で自ら狩った、新鮮でピチピチした温かい獲物」に他ならない。
「さあひろし様! まだ息がありますニャ! 冷めないうちに、その素晴らしい吸引力で丸呑みにしていただくのが一番の美味ですニャ!」
ニャルシスさんの瞳は、澄み切った善意と親愛の情でキラキラと輝いている。悪意は一ミリもない。むしろ「最高の獲物をあなたにあげる」という、猫生最大の賛辞である。
ひろしは引きつった顔でトカゲを見つめ、それから嫁子へと視線を泳がせた。 「よ、嫁子ちゃん……これ、どの角度から見てもパイ生地でも朝摘みイチゴでもないよね……? あと、なんか今トカゲと目が合ったんだけど……」
「ひ、ひろし君……善意よ。ニャルシスさんの目は、完全に『とっておきのごちそうを振る舞ったぞ』って言ってるわ……」
嫁子は額に冷や汗を浮かべながら、若さゆえの純粋な良心と現実のビジュアルの間で激しく葛藤していた。ここで断ったら、紳士な猫のプライドはずたずたになってしまう。
「ひろし様……? もしかして、お口に合いませんニャ……?」 ニャルシスさんの耳が、しゅんと後ろに倒れそうになる。尻尾の動きが不安げに止まりかけた。
「あ、いやっ! 違うのニャルシスさん! 感動して声が出なかっただけ!」 お調子者だが根が優しいひろしは、思わず身を乗り出してフォローを入れた。 「す、すげえよ! こんな躍動感のあるトカゲ……じゃなくてサプライズ、生まれて初めて見た! 嫁子ちゃん、見てよこの活きの良さ!」
「そ、そうね! ツヤがすごいわ! 本当に朝獲れなのね……! でもひろし君、お菓子ダイソンとしての名誉があるんじゃないかしら?」
嫁子が引きつった笑みのまま、ひろしの背中をポンポンと叩く。悪気のない無茶振りが飛んできた。
「えっ、嫁子ちゃん!? 俺、お菓子ダイソンであって爬虫類ダイソンじゃないんだけど!?」
「いつも『俺の胃袋に吸い込めないものはない』って威張ってたじゃない! ほら、ニャルシスさんがワクワクしながら待ってるよ?」
「丸呑みですニャ! 喉越しですニャ!」 ニャルシスさんが両前足を握りしめ、目を輝かせてコールを送ってくる。
「ダイソン……ダイソンか……」 ひろしは額の汗を拭い、ピクピクと動くトカゲを見つめ、最後はお調子者特有のやけくそな笑顔を浮かべた。
「よし分かった! ニャルシスさん、これはいったん大事に持ち帰って……俺んちの電子レンジという名の秘密の調理器具で、じっくりパリパリにベイクしてから吸い込ませてもらうよ!」
「なるほど、人間界の熟成調理ですニャ! さすがひろし様、食へのこだわりが違いますニャ!」 ニャルシスさんは大満足で胸を張り、得意げに尻尾を立てて厨房へと戻っていった。
嵐が去ったテラス席で、ひろしと嫁子は皿の上のトカゲを見つめながら、同時に深いため息をついた。
「……ねえひろし君」 「なに、嫁子ちゃん」 「持って帰って、庭に逃がしてあげようね……」 「うん……ダイソンの吸引力、今日は完全にゼロだわ……」
日当たりのいいファンタジーの街で、二人はお互いに苦笑いを交わしながら、冷めかけた紅茶をそっとすすり合った。